設問「どういうことか」とあるが、どういうことか。①
こんにちは。
今回は、「読解って何よ?」シリーズをいったんお休みして、現代文の設問についてお話ししたいと思います。
現代文の設問とは?
現代文の設問は、他の教科の問題と比べてもぶっちぎりに不親切だと思います。
よくある設問は、
「傍線部『…』とあるが、どういうことか、説明せよ。」
「傍線部『…』とあるが、なぜか、説明せよ。」
といったものです。
そして、傍線部に関する設問のほぼすべてに「説明」という言葉が入っています。よって、設問は「傍線部の説明」を求めているのだと思われます。それはわかりますが、
こんな抽象的な問いがありますか?
何かを「求めよ」というのではありません。「説明せよ」というのです。
「説明」という言葉の意味を辞書で調べると、
①ある事柄の内容や意味を、相手によくわかるように述べること。
とあります。まあ皆さんもそういうことだろうと思われるでしょう。
皆さんが日常で「どういうことか」「なぜか」といった説明を求めたくなるのは、相手がある事柄を理解していて、自分にはそれがよくわからないときです。
人はみな、変態だと思います。*1
この一文を急に主張されれば、大体の人は「どういうこと?」「なぜ?」と問いたくなるでしょう。まして、テレビで歌を歌っている清潔感あふれる星野源しか知らない人は、「あの人がこんなことを言うだなんて」という意味でも二重に理解できないかもしれません。(そんなあなたには星野源の初期のエッセイ集「そして生活はつづく」をおすすめします。すごくおもろいです。ただの優しそうな兄ちゃんではない星野源に触れることができます。)
実際の問題文中でも、傍線部に指定された箇所を見てみると、確かに「他と比べれば少し変わった表現と言えなくもないな」くらいの部分に線が引いてあります。
しかし、その「説明」をするにあたって、受験生はしばしば困らされます。それは、現代文の「説明」にしかない、特異な点があるからです。
現代文の「説明」の特異な点とは?
現代文で求められる「説明」の特異な点は、以下の4つにまとめられます。
- たった今初めて読んだ文章について説明を求められる
- 相手の方がその文章について詳しいはずなのに、その相手がこちらに説明を求めてくる
- 「相手がわからないこと」がわからない
- 相手が本当に知りたいのは説明そのものではない
まず、1番の「たった今初めて読んだ文章について説明を求められる」について。
実はこれは現代文に限らず、英語や小論文もそうなのですが、試験場でいきなり知らない文章を読まされ、それについて説明するという状況は、いわゆる「試験」にしかない特殊なものです。予備知識がない事柄を説明することになるのです。
そして、そのたった今初めて読んだ文章の表現に傍線を引っ張られ、それについて説明を求められます。ですが、この表現に疑問を感じる(説明を必要と感じる)かどうかは人それぞれです。それ以前に、細かな表現に疑問を感じたりするほどその文章に興味はないし、まして相手からの疑問に答えられるほど初めて読んだ文章について詳しいわけはありません。
ですから、受験生は、予備知識の全くない事柄に関して、本文の情報のみから、説明をしなければならないわけです。*2これは、普通の人には経験のないことでしょう。生きていてそんなことを求められる機会があるのかも疑問です。
続いて、2番の「相手の方がその文章について詳しいはずなのに、その相手がこちらに説明を求めてくる」についてです。
入試の現代文はテストですから、出題者は受験生に説明されるまでもなく、傍線部のもっとも優れた説明を知っています。知ったうえで受験生に説明を求めます。というか、出題者が最も優れていると思うような説明が最も優れた説明であり、それを満点の答案とし、それに近づく順に受験生の答案に点をつけるのです。
なんだか性格が悪い人のようですが、これも試験なのでしょうがないといえばしょうがないですね。
一番問題なのは、3番の「『相手のわからないところ』がわからない」です。
何かを説明するとき、必ず考えなければならないのは「相手」の存在です。
その説明の是非や優劣、「いい説明か悪い説明か」は、「相手がその事柄を自分と同じように理解してくれたかどうか」で決まります。説明の良し悪しは相対的なのです。
例えば「自動車」というものを説明する場合、
- 物理学者なら、内燃機関やらタイヤの摩擦やら加速度やらについてしゃべるでしょうし、
- 自動車学校の教官なら、運転の仕方や自動車と原付自転車・軽車両との違いなどについて教えてくれるでしょうし、
- 幼児の親なら、「くるまはとってもはやくてべんりだけど、あぶないからきをつけてね」と言ったり、手っ取り早くトミカを買ってやったりするでしょう。
それは、説明する相手が異なるからであり、説明される相手が学会の人や学生であるか、免許証を手に入れたい生徒であるか、車好きな子供であるかによって求められている情報が全く変わってくるからです。
それは、『なぜか』の説明でも同じです。
「なぜ自動車は走るのか」ということへの説明としては、
「内燃機関が燃料を燃焼して得た熱エネルギーを運動エネルギーに変え、動力を生み出しているから」とも言えるし、「アクセルを踏んでエンジンの回転数を上げたうえでクラッチを繋げたから」とも言えるし、「ガソリンがはいっているから」とも言えます。
そうやって、相手の求める情報を示し、自分が理解している事柄を相手にも同じように理解してもらえれば、その説明は「相手にとって」優れた説明です。相手に理解してもらえなければ、たとえ第三者がどんなにそれを褒めたたえたとしても、「相手にとって」優れた説明とは言えません。
つまり、出題者がどんな情報を求めているかがわからなければ、出題者が求めるような説明などできっこないということです。
しかも、テストの場合、前述のとおり相手(出題者)は明らかにこちら(受験生)よりその文章や傍線部を理解しています。相手にわからないところなどあるはずがないのです。そのうえで、「君の説明がどれだけよくできているか評価してあげるから、説明してごらん」と言ってくるのです。そんなやつにわざわざ説明してやる気にはならん!
だから、少なくとも皆さんが普段やっている「説明」は(そもそも説明などということを普段しないかもしれませんが)、現代文では不可能・不成立ということになります。ゆえに、「傍線部の説明」を通じて出題者が何を求めているのかがわからないと、解答を作りようがないのです。
これを4番「相手が本当に知りたいのは説明そのものではない」の説明とさせてもらいます。
では、出題者は何を求めているのか。
次回、解説します。
毎回いいところで終わってすみません笑