現代文に文句を言うブログ

「現代文 無理」「現代文 理解不能」と検索したあなたへ

「読解」って何よ?①

こんにちは。11月に入り、だいぶ冷えてきましたね。

 

さあ、今回は、現代文教師がエラそうに使う、あの「読解」という言葉について、僕なりの解釈をお伝えしたいと思います。

 

なお、今回説明するのは論説文の「読解」で、小説に対しては当てはまらない部分もあるかもしれませんのでご了承ください。

 

「読解」という言葉が使われるときとは?

 

「読解」という言葉は、そのほとんどが教育の中で使われる言葉です。

 

辞書には、

文章を読んでその意味を理解し、解釈すること。「ー力」 (広辞苑

文章を読んで、その意味・内容を理解すること。「英文をーする」「ー力をつける」(明鏡国語辞典

などと書いてあります。

ただ「読む」だけと比べると、より理解する・解釈するという意味を強調しているようです*1

 

受験生にとって厄介なのは、その理解・解釈といっても、何を・どのように・どこまで・どうやってすればいいのか、その基準がよくわからないことです。

 

LD(学習障害)の方を除けば、文字の羅列を見て、それを書いた人が伝えたいことを理解するという経験は、だれしも持っていると思います。

そして、その自分なりの理解について、人から評価をされることはあまりありません。

 

例えば、

「変態」

という言葉*2

辞書(広辞苑)には、

 

①もとの姿・形をかえること。また、その姿・形。

②正常でない状態。

③(変態性欲の略)性的行為や性に対する関心が正常でないこと。

④[生]

 ㋐動物が卵から孵化した後、成体になるまでに、次期により異なる形態   をとること。

 ㋑植物などが…

途中で疲れてやめましたが、いろいろな意味が乗っています。

 

そして、街でポスターか何かにでかでかと「変態」と書かれていたとして、

生物学者の方なら、

④の意味で、完全変態とか不完全変態などの単語や、ヤゴがさなぎにならずにトンボになることから、トンボのことを連想するかもしれません。

少年漫画が好きな方なら、

明らかに日本人じゃない髪の色とパンツが見えないわけがないミニスカートをはいたグラビアアイドル並みのスタイルを誇る「女子高生」が、幼馴染のさえない男が転んだ拍子にスカートの中に顔をうずめられ、真っ赤になりながら叫ぶ言葉を連想するかもしれません。

罵られるのが好きな方なら興奮するかもしれません。

 

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そして、その理解や想像(妄想)に対して、他人から文句を言われることはありません。好きなだけ鼻の下を伸ばしていればいいわけです。

 

日常生活で「読解」を求められるとすれば、

 

俺「福山雅治みたいにカットしてください」

美容師「わかりました」

俺「ふぅ…」

美容師「あんちゅあ~んあんちゅあ~ん」*3チョキチョキチョキ

 (笑えるコピペ)

 

の場面で、「俺」が

福山雅治のような髪型にしてください」という意味で言った言葉を、

美容師は

「自分が福山雅治の真似をしながら」切ったことで、

美容師は「俺」の言葉を読解できていないことになります。

 

アホみたいな例えばかりでしたが、大事なのは、

ある言葉・文・文章について、多数の人の理解の仕方に合わせる必要があるのに、そのように理解できないことを、「読解ができない」と表現する

ということです。

 

ただ「読む」だけならその理解に優劣などないのです。読解という言葉が使われるとき、その言葉や文章には正解とされる意味が設定されています

 

現代文における読解では、問題作成者が問題文の「正しい理解」を設定しており、それに近い理解ができれば「読解力がある」、それから遠ければ「読解力がない」と評価されるのです*4

 

その設定された「正しい理解」を採点基準として問題が作られます。だから、「文章を読んで感じることなんて人それぞれじゃん!」という主張は、現代文においては通用しません。どんなにわかりにくい科目だとしても、やはり立派なテストなのです。

 

「読解」という言葉の困った点とは?

 

受験生の皆さんは、現代文で点が取りたいなら、問題作成者が意図するように文章を理解しなければなりません。

 

しかし、ここで問題が生じます。

 

あなたは、「読解しなさい」と言われて、「読解する」ことができますか?

 

もし、「起立しなさい」「着席しなさい」「食事しなさい」などと言われれば、心身の機能の障害等特別な事情がなければ可能です。それは、指示されているのは動作であって、その動作にはほとんどの人に経験があるからです。

 

一方で、「読解しなさい」という指示は、動作とは言えなくもないものの、だれしもに経験があることではありません。

先ほど述べたように、「読解」という言葉は、特定の理解に合わせる必要があるときに使われる言葉です。

「読解」は、「読解できていない」や「読解力がある」などのように、問題文を読んだ人の頭の中を説明するのにつかわれる言葉であり、「状態を表す言葉」なのです。

現代文ができる人のことを「読解力がある人」と呼び、そうでない人を「読解が苦手な人」と呼ぶのであって、苦手な人がそれを指示されたところで、できるわけはありません。

 

現代文が苦手なのは、読解力がないからではありません。現代文が苦手な状態のことを「読解力がない」というのです。現代文の得手不得手と読解力は、因果関係というより、表裏の関係です。

 

つまり、現代文で点が取れない受験生に「読解力をつけろ」などと言ったところで、受験生にはどうにもしようがありません。それは「現代文で点を取れ」と言われているのと同じなのであり、アドバイスでも何でもありません。

 

 

ではどうすればいいのか?

 

では、出題者の意図するような理解ができない人は、どうしようもないのでしょうか。

 

 ここで考えてほしいことが二つあります。

 

一つ目は、

出題者は、どうやって受験生の「読解力(読解できているかどうか)」を調べているのかです。

 

 現代文はテストです。受験生と出題者(採点者)をつなぐもの、受験生の学力を測るものは答案以外にはありません。受験生の読解力は、受験生の答案によってはかられるのです。

 

ということは、たとえ受験生が問題文を読んで正しく理解できたとしても、答案でそのことをアピールできなければ、その人は「読解できていない」として点がもらえません。

 

逆に、受験生が問題文を読んで何を感じたとしても、もっと言うと、何を言っているのか全く分からなかったとしても、自分が読解できたことをアピールするような答案が作れさえすれば、その人は「読解できた」ことになるのです。

 

そんなことができるのか。できます。ここで考えてほしいことの二つ目。

 

現代文の答えは、全て問題文の中にあるということです。

 

つまり、問題文の中から、出題者が答えとした箇所(=問題文の中で重要な箇所=出題者が問題文を正しく理解(読解)するうえで不可欠だと考える箇所=受験生が読解できたことをアピールできる箇所)を見つけ出すことさえできれば、得点できる解答を自力で作ることが可能なのです。

 

そして、それを見つけ出すのに、個々人が問題文を読んで何を考えたか、何を連想したかは関係ありません。それをテストで問われているのではないのです。あなたが問題文を読んでどこが頭に残ったかとか、何を想像したかとか、そういったことには正解などつけようがありません。あなたが問題文を読んで、いかに出題者の正解とする理解に近づけるか、そしていかにそのことをアピールできるかが問われているのです。さらに言うと、もし出題者の考えるように理解できなかったとしても、出題者が答えに設定した箇所(本文中の表現)さえ見つけることができれば、それでことが足りるのです。

 

それを見つけるための作業が、僕の考える読解になります。

 

「読んで理解する」のではなく、「解くために読む」「解けるように読む」のです。(熟語の成り立ち的には大間違いですが)

 

以後、僕の考える読解について説明するときは、括弧をつけずにただ読解と書きます。

 

読解における「読む」とは?

 

趣味で読書をするときなどの一般的な「読み方」と、僕の考える読解における「読み方」は大きく異なっています。

 

一般的な「読む」では、

  • 文章の初めから終わりまで、一本の紐のようにスラスラと文字を追っていきます。
  • そして、自分の興味・関心に合うような内容だけが、頭に引っかかるようにして記憶されます。残りのことは意識から消えてしまい、のちに何かのきっかけでそれを思い出すことがあっても、それまで意識されることはありません。
  • 文章内である文を読んで思うことは、「これはその通りだと思う」「これは違うと思う」「そういえば似たようなことを考えたことがあるなあ」「こういう考えもあるのか」「この人何でこんなこと大真面目に語ってんだろう」「こんなことどうでもいいから早くゲームしたいなあ」など、主観的な連想になります。

 

僕の考える読解における「読む」では、

  • 問題文全体が一つの地図のようなもので、その中から重要な箇所を見つけるために文字を追っていきます。そして、一文ごとの内容(情報)をまとめ、選別していきます(前回のブログでも言いました。その方法は次回に話します)。
  • その際、自分の興味・関心は全く関係ありません。
  • 文章内である文を読んで思うことは、「この文の内容(情報)はこれまでの文章と同じことを言っている」「これまでとは違う内容だ」「これまでをまとめている」など、極めて客観的な分析になります。

 

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現代文の海へ出航!…なんか嫌ですね笑

 

よく「現代文はパズルだ」と言っている方がおられますが、おそらくこの読解において問題文を地図のようなものだと考えることと似ていると思います。文の表現がピースになっていて、それを組み合わせて解答を作るということなのでしょう。

 

問題文を読んでも何も感じないし、何をすればいいのかわからないという方は、今まであなたがやってきた「読む」とは全く異なる読み方をする必要があることに気づいていただきたいと思います。そして、その全く別の読み方を会得すれば、今までの「暖簾に腕押し」状態から抜け出して、実体のある重たい荷物を一生懸命に押すことができるようになります。最初は確かに重たくて疲れるかもしれませんが、その疲労感は心地よいもので、現代文の問題に「解き甲斐」を感じられるようになるでしょう。

 

だいぶ長くなってしまいました。最後まで読んでいただきありがとうございました。次回は、実際の問題文を用いて具体的に読解をしていきたいと思います。 

 

 

 

*1:ただの「読む」という動詞にも、「文字を見てその意味を理解する」という意味はある。

*2:ここで「変態」をぶっこんだ理由は、目の前に星野源のエッセイ「よみがえる変態」があったからである

*3:こちらを参照されたい。

懐かしい!福山雅治の名言?「あんちゃーん」? | 福山雅治ファンブログ

無言リンク失礼しますm(__)m

*4:このことを、東進の林修先生は「現代文における三角関係」として説明している。現代文の試験では、問題文の著者・問題作成者・受験生の三者がおり、著者と作成者はグルであって、受験生は彼らが求めるように本文を理解(し、それを答案としてアピール)しなければならない、というもの。

現代文と他の科目との決定的な違い。

こんにちは。

 

今回は、現代文と他科目との違いについて説明します。

 

他の科目(英語・数学・理科・社会)は何となくできる(できないことへの疑問が生じない)んだけど、国語、特に現代文は何をどうすればいいのか全くわからないという方は少なくないのではないかと思います。

 

なお、英語・古文漢文の読解問題や、歴史の記述問題も現代文と似たところがありますので、それも「現代文的な問題」としてお考え下さい。次回以降に説明しますが、この「読解」という言葉が非常にやっかいです。

 

 

他の四科目に必要な2ステップとは?

 

他の四科目は、問題を解くために、次の二つのステップが必要です。

  1. 必要な知識を知っていること(道具を持っている)
  2. 必要な知識を正しく使えること(道具を使える)

 

必要な知識とは、言い換えれば教科書の内容(+α)です。

  • 数学や理科なら公式やその証明。
  • 社会なら年号と人物、出来事。
  • 英語なら単語の意味、アクセント、文法事項など。

 

必要な知識を知らなければ、問題は解きようがありません。斧ものこぎりも馬鹿力もワンパンチもなければ、木を倒せないのと同じことです。

 

解けない問題があったとして、問題の前でうんうん唸っていても何も思いつかず、答えを見てもイマイチぴんと来ない場合、それは解答に必要な知識を知らなかったということになります。

 

例えば、英語や古文について、

  • さっぱり理解できなかった問題があったとして、まず、その問題文のなかで意味を知らない単語を、すべてマーカーか何かでチェックしてみてください。
  • そして、それらの意味を調べ、チェックされた単語の下にその意味を日本語(現代語)で書き込んでみましょう。
  • その後にもう一回文章を読み直し、すらすらと読むことができたなら、それは必要な知識が足りなかったということになります。

 

また、数学なら、

  • 答えを最初から読んでみて、わからないところを教科書で調べ、足りない知識(公式や証明)を知った後で、もう一回答えを見直してみて、その答えが理解できれば、その問題が解けなかった原因は知識不足ということになります。

 

受験生の皆さんに伝えたいのは、問題が解けない理由が知識不足の場合、その科目が得意とか不得意とかいうことは関係ないということです。知っているか知らないかの問題です。

 

その知識を蓄えることへの意欲に関して、その教科への好き嫌いが関わってきますが、それはまた別の機会に話します。

 

なぜ他の科目は何となくできてしまうのか?

 

そこで、なぜ他の科目は何となくできてしまうのかですが、

それは、

その「必要な知識」がまだ知らないことだからです。

 

「他の科目は何となくできてしまう」とは、「他の科目にはできないことへの疑問が生じない」と言い換えることができます。

 

受験生になって問題を解けるようになる必要が出てくれば、問題が解けない⇨答えを見る を繰り返すうちに、自然と必要な知識を覚えていくのです。問題が解けるようになりたいから。

 

そして、その知らない知識が補充されれば、解けなかった前回に比べれば解けるようにはなっているので、自分の成長を少しでも感じることができます。

 

(色々な科目で行き詰まっている方は、「自分が何をわかっていないのか」「何がわかれば解けるようになるのか」を意識して勉強すれば、知らなかったことが注意され、知識が積みあがっていきます。それは、勉強する前に比べて、量的に進歩しているということです。)

 

さらに言うと、②の使い方というのも、知識として覚えてしまうことが可能です。「知識を使うこと」を最も求められるのは数学かもしれませんが、その数学でも、「この問題はこう解く」というパターンを記憶していけば、解ける問題は増えていきます。

 

現代文は他の科目とどう違うのか?

 

さて、お待たせしました。

じゃあ現代文はどうなのかということですが、

現代文は、問題文そのものが、①の必要な知識です。

 

問題文を読むために必要な語彙や、漢字問題のための漢字なども、当然必要な知識です。が、現代文の場合、語彙や漢字をいくら覚えても、それで問題が解けるようにはなりません。

問題文の頭から最後までスラスラ読めても、傍線部の問題がスラスラと解けるかというと、それはまた別の話だという人が多いのではないでしょうか。

 

また、問題文の内容やその作者についての予備知識も、問題を解くのに重要ではないと思います。

それをあてにするのは、古文や漢文で、今までに読んだことのある文章が本番の試験に出ることを期待するようなものです。

世の中にある膨大な数の論説文や作家の情報を仕入れ続けることを、出題者が求めているとは思えません。

 

僕は、林修先生をはじめとする世の中の現代文講師と同じく、現代文の答えは本文中の内容から作ればいいと考えています。詳しい理由はまたお話しするかもしれませんが、まずその前提で話をします。

 

その場合、テストを受ける全ての人に必要な知識が示されていることになります。

 

現代文と他の科目との違いはここにあります。

 

他の科目は、知識が足りていないから問題が解けない。

一方で、

現代文は、情報が多すぎて、何を使えばいいのかわからないから問題が解けないのです。

 

現代文に必要な2ステップはこれらです。

 

  1. 必要な知識を選別すること(道具を選ぶ)
  2. それを使うこと

 

つまり、初めの前提が180度異なるのです。

 

なぜ現代文はわけが分からないのか?

 

現代文がなんとなくでは決してできるようにならず、なぜできないのかもわからない理由はここにあります。

 

解答に必要な前提が、他の(一般の)科目と根本的に異なるからなのです。

 

現代文は、「現代文に対する態度」を知らなければ、いくら問題を解いても一向にできるようにはなりません。

 

その態度とは、問題文の情報を選別(分類)しようとする姿勢です。

 

その問題文の情報を選別する作業を、僕は「読解」と呼びます。

 

受験生を苦しめる「読解」という言葉について、次回、僕なりの解釈をお話しします。

 

 

 

 

 

 

 

 

受験生の試行錯誤。

【この度の台風19号で被災された皆様に、心よりお見舞い申し上げます。

 一日も早い復旧をお祈りしております。】

 

現代文に文句をぶちまける前に、自己紹介として僕自身が経験した大学受験についてお話させてください。

 

僕は2016年度(2017年2月)に現役で受験し失敗。一年浪人生活を送り、2017年度(2018年2月)に再び受験するも、前期はまたしても不合格で、後期で受かった大学に現在在籍しています。

(そのため、このブログで出てくるセンター試験は、来年度から始まる大学入試共通テストではなく、マーク式解答のみのテストです)

 

僕は地方出身です。通っていた高校は中高一貫で、自分で言うのは何ですが、結構有名な進学校でした。

 

高校二年の秋・冬あたりから受験のことが気になり始め、東進衛星予備校に行き始めました。

 

その当時の学校での成績は学年の半分より少し上くらいだったと思います。それまで学校の定期試験は無難にこなし、学校で受ける全国模試なんかも「まだ高二だしな」と対して気に留めていませんでした。

 

ところが、受験のシステム(一次試験はマーク式で900点満点、二次は大学による、など。当時はそれすらも知りませんでした汗)を知り、マーク模試などを受ける中で、自分の現実がわかってきました。

 

マーク模試の結果は、高三の春の時点で確か900点中の630点くらいで、七割あるかないかぐらいでした。

 

僕は、二つのことを感じました。

まず一つ目。

 

「俺って思ったより学力ないんだなぁ…」

 

僕は、何を隠そう天下の東京大学を狙っていました。東大を受けるなら、センター試験は9割とらないと二次で不利になります。今の成績のままでは合格できるはずはありません。

 

それまでの学校生活では、特に受験を意識したことはありませんでした。普段は学校で出された宿題をこなし、定期試験の前になったら試験勉強をする、という「普通の」学生生活でした。定期試験でも、平均点をクリアしていればテストの点など気にもしませんでした。

 

しかし、そんな意識の低い僕にも、大学受験というはっきりした目標を前に、「学力(得点力)」という概念が生まれました。決められた範囲(教科書の内容)と形式(マーク式・過去問)があるテストで、いかに点が取れるかというれっきとした能力です。

 

大学受験は一発勝負ですから、「前回はうまくいったけど今回はダメだった」みたいなことでは、本番で点が取れるかどうかが怪しくなります。その本番のために一念費やして勉強するし、その本番がダメだったら行きたい大学に行けない、もしくはもう一年、今度は高校生ではなくなったうえで勉強漬けの浪人生活を送らねばなりません。不合格の重みを考えると、確実に点が取れる、自信をもってテストに臨めるだけの学力が必要だ、と当時の僕は思いました。

 

「今の学力が低い」この事実は揺るぎません。僕はその時初めて、目標と現実の学力の差を知りました。しかし、このこと自体にはそこまで落ち込みませんでした。俺にはまだ一年ある、学力が足りないならつけるだけだ。そう思うことはできました。

 

問題はもう一つのことです。

 

「学力って、どうやって伸ばすんだっけ?」

 

僕は、それまで、テストのための勉強なんてくだらないと思っていました。「興味の湧かない知識なんて役に立たない」という態度で、テストで点を取るための勉強など何の意味があるのかわかりませんでした。学校の宿題は課された課題だからやり、試験勉強も、後々のために自分が思う最低限はやりました。ですが、そこにやる気も高い意識もありませんでした。

 

試験勉強に意味があるのかどうか。これは誰しもが一度は考えたことだと思いますが、試験勉強に意味を見出せるかどうかに関係なく、大学に行きたければ勉強して学力をつけなければいけません。意味を見出せるかどうかはやる気に関わることで、勉強をするかしないかはその人の進路、つまり必要性に関わることです。

 

大学に行きたければ勉強するしかない。けどやる気が起きない。これは受験生を悩まし続ける大きな矛盾の一つですが、それはとりあえず置いておきます。僕が悩んだのは、「学力を身につける方法がわからない」という、方法論的・技術的な問題でした。

 

東進で講座を受けても、宿題をやっても、テストの見直しをしても、一向に伸びない成績。模試で結果が出ない。しかも、成績が伸びる気がしない。日々やらなければならないことをこなしていたのですが、自分の中に変化がなかったのです。勉強をしたつもりでいても、何も積み上げられていないことに気が付き始めました。

 

大学に行きたい(行かねばならない)。ならば入試でいい点を取らなければならない。ならそのために勉強しなければならない。だが勉強してもいい点が取れない。でも勉強しなければならない。だが成績が伸びない。でも… というように、同じところをぐるぐる回っているような状態でした。

 

おまけに僕は、単純に試験勉強・座学が嫌いだったので、嫌いだし出来も悪いことを必要に迫られて直視し続けるという苦痛を味わうことになりました。さらに入試は期日がはっきりと決まっているうえに、前述のように一発勝負ですから、「迫られる必要」もかなり大きいものです。

 

そんな堂々巡りの苦しみの受験勉強でしたが、試行錯誤のうちに学力の伸ばし方がなんとなくわかってきました。この僕なりの勉強方法も、このブログで紹介しようと思います。

 

そして、気になる受験結果ですが、

センター試験がリスニングを除く900点中755点(そのうち国語は200点中146点、現代文は100点中62点)、

二次試験は440点中244点(国語は120点中60点)

センター試験が110点に圧縮されるので、

合計点が550点中336.2778点。

合格最低点が348.5222点だったので、12点ほど足らずに不合格でした。

 

そして駿台予備校に入学し、一年浪人生活を送りました。

 

駿台の実力派講師の授業を受け、得た知識をもとにさらに試行錯誤を重ねました。特に駿台の関西現代文科が誇る「客観的読解法」は、僕の現代文に対する疑問や苦手意識を大いに解消してくれました。

 

一年以上浪人する気はなかったので、現役の時以上に完璧を目指して勉強しました。後がないというプレッシャーはとてつもなく、メンタルがだいぶやられました。

 

試験本番の直前あたりから心因性の頻尿に悩まされ、二次試験の本番は試験時間の半分以上トイレのことを考えていました。

 

浪人生活・試験本番のメンタルヘルスについても、後々お話しできたらいいと思います。

 

浪人した結果はこちら。

センター試験はリスニングを除く900点中843点(国語は175点、うち現代文は100点中75点)

二次試験は440点満点で236点(国語は120点中59点)

合計で550点中339.0333点。

合格最低点は350.6333点で、二年連続で涙をのんだのでした。

 

センター試験の点数は一年で飛躍しましたが、二次試験の点数が前年より低いというまさかの事態に。

 

不合格の翌日には再び東京に向かい、後期試験を受けました。その試験終了後、家に送られてきた前期試験の点数開示を写真で送ってもらい、見てみたときは、もう苦笑いするしかありませんでした。

 

肝心の本番で点が取れなかった僕ですが、模試やセンター試験の成績が伸びたのは事実です。高三のころは模試でE判定しか出ませんでしたが、浪人のころはほとんどA判定でしたし、予備校のみなさんからも「こいつが落ちるなんて」と絶句していました。皆さんの周りにも絶対受かると思われていたのに落ちてしまった人がいるかもしれませんが、それが当時の僕でした。

 

 

言い訳がましく聞こえたかもしれませんが、そもそも僕は自分の経験や勉強法を、成績によって正当化できるとは思いません。どんなに成績を伸ばして大逆転合格をした人の勉強法や経験だって、自分に理解できなければ意味がないのですから。

 

僕は、センスがほとんど通じなくなり、一から自分の勉強法を作り直しました。真剣に試行錯誤し、得たものを、皆さんの役に立つと思って紹介します。取り入れるか取り入れないかは当然あなたに合っているかどうか、すなわち、「あなたに実践できて、実際に成績が伸びそうかどうか」次第です。その際に参考として、模試やセンター試験の成績は確かに伸びたことと、それでも二次試験で東大に二年連続で不合格だったという事実を述べておきます。

 

長々と書いてきましたが、最後まで読んでくださって本当にありがとうございます。次回から現代文に文句を垂れていきたいと思います。

 

 

 

 

 

 

現代文に腹が立つ。

はじめまして。

  

現代文に腹が立つ。

 

これは僕が大学受験の勉強をしていて思ったことです。

 

僕がいわゆる「現代文」の問題を解くようになったのは中学受験からでした。そのころの得意科目は国語でした。塾の先生から「国語は勉強して伸ばすのが難しいから得意でよかったねえ」などと言われ、そうかよかったぁなどとのんきに思っていました。

当時確かにテストの成績は周りと比べてもよかったし、中学受験では国語で困った記憶もほとんどありません。第一志望だった中高一貫校にも入れました。

 

中学・高校の定期テストでは、点が取れるときと取れないときがありましたが、特に気にも留めることもありませんでした。現代文の評価は十段階で七か八くらいでした。

 

 そして高二の秋くらいから大学受験を意識し始め、現代文の問題を改めて真面目に解いてみて思いました。

 

「解き方がわからねえ」

 

それは、今までは通用してきたセンスが、全く通用しなくなったということでした。

 

問題文を一通り読むことはできるけど、読み終わっても何も頭に残っていない。作者の言いたいことは何となーくわかるが、それを自分で言葉にすることはできない、できても一言くらい。何でこんなに難しい言葉を使いたがるんだ。もっと簡単に書けないものか?

 

そして設問を見て、絶望する。

 「傍線部Aとあるが、どういうことか。」

 

どういうことか?

 

どういうことかってどういうことだ。何が聞きたいのかさっぱりわからない。設問の横に傍線引っ張ってどういうことかと問い返したくなる…

 

今までは何となくやって何となく点が取れていました。しかし、大学入試は一発勝負です。「どうすれば解けるのか」を自分で分かっていないと、一回の模試で高得点がとれても得点力とは言えません。

 

そこで当時の僕は完全に困ってしまった。

 

他の科目と違い、勉強の仕方がわからない

 

他の科目なら、勉強(練習)することで自分の解答と正解との間を埋めることができます。それは、解けるか解けないかが知っているか知らないかの話だからです。公式にしろ単語にしろ解き方にしろ、知っていれば解ける。知らなければ解けない。そして、知っておかなければならないことは全て教科書に書いてあります。

 

しかし、現代文は、何を知れば解けるようになるのか、何がわかっていないから自分は解けないのか、それがわかりません。教科書には原文と設問があるにはあるし、学校の先生も解説してくれますが、それを自分で再現することができない

 

学力を上げたい、得点力をつけたいと思っても、どうすればいいのかさっぱりわかりませんでした。

 

問題集を解いても、わけわからない文章をとりあえず読み、わけのわからない解答を何とかひねり出して作り、答えを見てもどうしてそこが答えになるのか意味が分からないまま適当に丸付けをして、とりあえず現代文の勉強をした気になっていました。

 

現代文に腹が立つ。

 

それはつまり、現代文という科目が全く理解できないという困惑です。

 

受験生の皆さんの中にも、このような悩みを抱え、現代文に苦しめられている方々がたくさんいると思います。

 

このブログでは、僕が受験期に現代文に対して感じた困惑・不満・怒りと、それへの自分なりの答えを紹介したいと思います。

 

次回は、初めとして、僕自身の大学受験の話をさせていただきます。